冷たい雨 雨の日は嫌いだ。雨の日は気分が塞ぐ。兄様の機嫌も少しばかりよくない気がするし、仕事にも身が入らないから海燕殿に叱られた。 雨の日は嫌いだ。何かよくないことが起こる予感がするから。 「雨……」 ぽつり、と頬に落ちた滴に気付いて見上げれば、どんよりと曇った空が目に入った。そして瞬く間に雨は本降りになる。 慌てて雨宿りできそうな場所を探して、『本日臨時休業』と書かれた紙が貼られた店の軒先を借りることにした。 懐から出した手拭いで頭や顔をふき、ため息をつく。傘を持たずに出てきてしまった。どうやら本格的に降り出すらしいこの雨は、 当分やみそうにもない。飛び出して屋敷に帰るには距離がありすぎる。 何より濡れたまま帰れば兄である白哉にはしたないと叱られそうだ。仕方なく雨が止むのを待とうと、 ルキアはその場に背を預けた。色々なことを考えてしまう。雨の日は。こうして立っていると、 この世界には自分以外に誰もいないのではないかと錯覚するほど、耳には雨の音しか入らない。 実際には目の前を色とりどりの傘が通り過ぎていくのだけれど、はたしてあれは本当に自分と同じ、生あるものなのだろうか。 あの傘の下には本当は誰もいないのではないのだろうか。 「雨の日は嫌いだ」 思考がどんどん沈んでいくのを感じながらも、ルキアは考えることをやめられない。 いつもいつも、貴族としての振る舞いを、その誇りを、その矜持を、 その気高さを意識せねばならない暮らしで心身ともに疲れ果てている。そんな落ち込んだ気分にこの雨だ。 秋も深まるこの季節の雨は冷たい。濡れた身体は下がった気温でどんどん冷えてゆく。この心も同様に、 その内冷え切ってしまうのではないか。最近恋次が自分から遠ざかっているのも気のせいではなく、事実そうなのだろう。 幼い頃を共に過ごした無二の友でさえ、今の自分からは離れていってしまう。雨は、 今まで確かにあったその存在を埋めるかのように冷たく心に降り注ぐ。いつかこの心は冷たい雨で溢れてしまうだろう。 「あれ、ルキアちゃん?」 深く沈んだ思考を引き上げたのは耳に心地良い声。はっとして顔を上げると、 死覇装によく映える蘇芳の色をした番傘をさしたが吃驚したように自分を見ていた。 「殿!どうしてこのような所に」 「いや、それ俺のセリフ」 「あ、その……傘を持っていなかったものですから」 「雨宿り?」 「はい」 頷けば「ふーん」と相槌を打つ。思いもかけない彼との遭遇にルキアは面食らうが、 やはり嬉しいことには変わりはない。ぱしゃぱしゃと足元の水溜りを蹴る音がしたかと思えば、 次の瞬間には隣でばさり、と傘をたたんだが立っていた。 「、どのっ!?」 「馬鹿」 「へ」 ばさりと頭に何かをかけられ、白い物体であるその隙間から見上げれば、少し怒ったような桔梗色の瞳が見下ろしてきた。 「濡れたままろくに拭きもしないでぼうっと立ってたんだろ。駄目だろ。ちゃんと拭かなきゃ。身体冷やしちゃ風邪ひくだろう」 言ってがしがしと自分の頭を拭くにルキアはただただされるがままだ。 「す、すみません」 「謝らなくてもいいよ。でも本当、身体は大事にしてくれよな。これ以上ウチの隊に病人が増えたら困るから」 「はい。気をつけます」 「隊長もなー、この間雨が土砂降りの日に傘もささずに帰ってきたんだよ。出掛けに持たせたにも関わらず、だよ? 聞けば途中で傘がなくて立ち往生してる人がいたからあげてきたって言うんだよ?信じられる?」 「は、はぁ」 「あの人絶対自分の身体のこと把握してないよ。じゃなきゃこんなに俺が苦労するはずない。あ、 浮竹隊長が先週から休んでるのはその時の雨が原因な」 「雨……」 との会話の中から、その言葉が引っかかり気付けば繰り返していた。 無意識に口の中で呟いたその言葉にがルキアの髪をふく手を休める。 「雨がどうかした?」 「いえ、何でもないんです。ただ…」 「ただ?」 言いよどむと、聞き返される。顔を背ければ無理に追いかけては来ないものの、視線をじっと注がれている。 横顔にあの桔梗色がまっすぐに向けられているのかと思うと、自然と頬が赤らむ。雨の日に、軒先で。二人きり。 それでも先程一人で延々と考え続けていた鬱屈とした想像は、すぐに胃の腑に冷え切った思いをこみ上げさせる。 ぎゅっと、自分の手を握り締めるルキアを見下ろすの顔が僅かに曇る。 「雨が降ると、よくないことばかり考えてしまうので。何か悪いことが起きそうな気がして。だから――」 「雨の日は嫌い?」 の言葉に頷いて、ルキアは目を伏せる。そんな彼女をしばらく見ていたは、つい、と視線を雨の中へ投じた。 「雨が降ると洗濯物が乾かなくなる」 「は?」 耳に届いたぼやきにルキアは思わず顔を上げての整った横顔をまじまじと見てしまった。 そんな彼女にはお構い無しに彼は続ける。 「なのに洗濯物は増える。泥が跳ねたモノなんか酷いんだ。普通に洗うだけじゃ落ちないから何度も洗わなきゃいけないし。 なのに隊長ってばお構い無しに汚すし」 「殿?」 「あと湿気るのも嫌だな。家中がかび臭くなる気がする。そうなると掃除せずにはいられないし、 浮竹隊長の家は広いから三日はかかる」 「あの、殿?一体何の話を」 されているのですか、と訊こうと口を挟めば。 「でもさ雨が降るとちょっとだけわくわくするんだよね。あの水溜りに飛び込んでみようかな、 この前内緒で作った小川の堤防はどうなってるかな、田んぼで鳴いてた蛙は出てきたかな、って。 それに雨が降らなきゃ木も花も育たないだろ?」 「あ……」 「俺達だって水が無いと乾いちゃうし。だから俺は雨の日好きだな」 「そう、ですか…」 「うん。だから俺はルキアちゃんにも雨の日好きになってほしいな」 「私、も?」 思いもかけない言葉に大きな瞳を丸くする。ぽかんとした顔をしているルキアに少し笑いかけて、 は立てかけておいた傘を開くと、何の躊躇いもなく雨の中へ。 「雨が降ったら傘をさせばいいよ。持ってくるのを忘れたら、俺が入れてあげる」 今日みたいにね、と。二、三歩踏み出してくるりと振り返ると、は微笑んだ。 その顔が、あまりにも綺麗だったから。見惚れたルキアに手を伸ばし、 おずおずとその手に自分の手を重ねる彼女を引っ張って自分の傘の中へ入れる。 「相合傘。白哉に怒られちゃうかな」 悪戯っぽく口元を緩ませる彼を見上げ、眉尻を下げてようやく不器用ながらに微笑んだ。 雨は冷たいけれど。この傘の中だけは、あたたかい気がした。ゆっくりと歩くと繋がれた手を見て、 胸の内がじんわりと満たされていくような気がした。 「雨の日のお散歩も中々いいでしょ」 少しでも動けば肩が触れ合う、そんな距離の中かけられた言葉に、是と答えたのは言うまでもない。 |